【名称】不明
【所在地】大網白里市大網
【竣工】不明
【延長】不明
【幅員】不明
【高さ】不明
2015年5月17日訪問
大網白里市大網、現在地はココ(←クリック) 北を向いている。
今でこそ、こんなショボイ道なのだが、明治維新の1869年から1871年の間設置された宮谷(みやざく)県の県庁がこの通りを50メートル程南下した本国寺に設置されていた。
つーまーりー、ここは150年前の官庁街のなれの果てだったりする(^-^; それから、この先、今は行き止まりとなっているのだが、かつては隧道があった。
それから、この左(東)にももうひとつ隧道があったのだ。
これは近くの日立航空機・大網工場跡(対戦末期に建設された地下軍需工場)の手前にある案内板の地図。
これには、現在の普通の地図には載っていない地図がボコボコと載っている(^-^; この案内板に載っているということは、同工場関係で掘削された隧道なのだろうか? 赤丸が本日のお題。そして、(仮称)宮谷1号隧道と2号隧道は以前、別の日に訪問済み。
本日の隧道もその時に少しだけ探そうとしたのだが、植生が激しくなり出した時期だったので、同行していたまきき氏と、「また今度にしよう」と言っていたのだ。結局同じような時期に来ているのだけど(^-^;
さて、ターゲットはこの奥、のはずだが…
ぶっちゃけ、おいら一人(orプラスまきき氏)だったら、やっぱり引き返していたかも(^-^; しかしこの日は写真には写っていないが、強力な助っ人が何人もいたのだ(・∀・)ニヤニヤ
まず、のだの人氏があっという間に藪の中に入り込んでいた。おいらはというと、「どこからら入ろうかなぁ…」と付近をウロウロ(^-^; すると、同氏の声が。。
「あー、隧道、あるようなないような…」
えっ、痕跡を発見!?( ゚д゚)ハッ!
こうなったら覚悟を決めて、、ということで、藪にまっすぐ突撃。
進んだ先は竹やぶだった。写真では解りにくいが、現地に立てば、同業者ならひと目で気づくはず。掘割りだ!!
掘割りの先の斜面。これは後で撮ったものなので、誰も写っていないのだが、この先の斜面にのだの人氏が張り付いて地面を覗きこんでいた。
同氏によれば、小さな隙間があるのだが、中を覗くと奥に続いているようだ、とのこと。
さて、次はきへい氏の登場。普段から行っている地下壕の清掃活動で鍛えられた技を活かして、サクサクと周囲の土を撤去し始めてくれた。
おいらは関心しながら見ているだけ(^-^;
そして再び、のだの人氏が。
小さな穴に頭(とカメラ)を突っ込む。頭が地面の中に埋まり、足をじたばたさせて竹に絡みつかせたり、まるで空からまっすぐに落ちてきて頭を地面に突っ込ませちゃった、というマンガのようなシーンだが、これは必然的な姿だったりする。
そして、おいらも穴の中を覗き込む。カメラをこれ以上奥に突っ込む事が無理なのでちょっと解りにくいと思うのだが、やはりこれは隧道を埋め戻した跡のようだ。狭い空間が奥まで伸びている。こういう時はコンデジじゃなきゃうまく撮れないよなぁ。。。
ちなみに、ここを覗いている時、おいらも半分ひっくり返りながら足を竹に巻きつけていた。そうしないと身動きが取れなくなってしまいそうなのだ。のだの人氏がネタでジタバタしていた訳ではないということを理解した瞬間だった(^-^;
さて、次は西側がどうなっているのかが気になるところ。すると、いつの間に行ったのか、のだの人氏が上から降りてきた。
どうやら、微妙な穴がある、とのこと。う~ん、どういう事だろう。でも、さっきも控えめな表現をしていたし、こりゃひょっとして、スゲーものがあるのか?
というとこで、尾根を越えて西側に降りてきたところ。竹やぶの先に造成地の舗装路が見える。
キョロキョロすると、、、確かにあった。何というか、陥没した穴のような姿だけど…
位置的には、先ほどの東側坑口から西に掘り進めた位置になるようだが…
これが隧道の痕跡かと言われると…
びーみょー (;´д`)
さて、再び東側に戻ってみると、更に、マツ氏の伐採作業(道具提供maya氏)作業の成果でより坑口前の状態が改善されていた。すばらしい!
再びのだの人氏。
それにしても、今回は多くの人のご協力で隧道の存在を確認できた。おそらくオイラ一人では何もできなかったのではないか(^-^; 言い出しっぺのくせに、結局、みなさんにおんぶに抱っこになってしまった。でも、以前から気になっていた事が解決して大満足。
みなさま、大変お世話になりました。ありがとうございました。
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