【名称】平司洞門
【所在地】夷隅郡御宿町須賀
【竣工】1934(S9)年
【延長】不明
【幅員】不明
【高さ】不明
2015年7月26日訪問
御宿町須賀(すか)、現在地はココ(←クリック) 北を向いている。この交差点を左折する。
この先、西武が開発した巨大なニュータウンがある。でも「←東京 千葉」ってのは、ちょっと行き先案内としてあまり適当でないような気がする(^-^;
この先にかつて隧道があった。
(この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。)
さて、今昔マップを見てみよう。左は昭和56年修正、昭和57年4月30日発行の地形図。そして右は現在の地形図だ。赤丸の中が本日取り上げる隧道跡。
次は航空写真を。これは国土地理院が1975年1月23日に撮影した航空写真を(CKT7414-C15B-34)拡大したもの(色調も若干修正してある) 是非、国土地理院のサイトでオリジナルの写真を見ていただきたいが、ほんの数十年で周囲の様子が一変したことがわかる。むしろ開削されはしたものの隧道のあった一帯の方が変化していない方だ(^-^;
隧道跡に行く前にちょっと寄り道を。先ほどの航空写真にあるA地点にいる。この細い分岐はどうやら旧道のようだ。
旧道の先にあったのは、お金持ちの別荘なのか企業の保養所なのかわからないが、3階建のゴージャスな建物。以前はこの奥が農地になっていたようだ。
旧道と現道が再度合流する地点。今では階段になっている。
現道に出ると、今度はその反対側に旧道があった(^-^; ひょっとしたら、現道のこの部分は土盛りしたのかもしれない。
ただでさえ細い道は左右からの雑草の浸食により、通れる部分がさらに細くなっている。かつては農作業のおっちゃんが軽トラを走らせていたのだろうか?
この道が残された理由は、道沿いに数軒の民家があるからだろう。ただ、その民家への入口も草木で覆われていていた。
100メートル足らずで現道に合流する。
現道から合流地点を振り返る。
ちなみに、現道区間のようすはこう。
山の上に続く階段もあったりするのだが、その手前のコンクリの打ってある部分が民家の入口(敷地?)なので、ズカズカと入り込むのは遠慮しておいた(^-^;
さて、坂のピークが近づいてきた。そろそろ隧道跡か。
この辺りがかつての谷津の行き止まり地点。そして隧道の坑口があったのだろう。
進行方向向かって右側の法面。
そして、左側の法面。
切り通しを過ぎると右手に記念碑があるのに気付いた。
「平司洞門記念碑」(゚д゚)ハッ!!
裏に回ると解説まで。
神定平司は明治二十八年(一八九五)須賀農業神定仁蔵の二男として生まれる。
農業を営む傍ら、付近の人々の山越えの農作業と、谷合い農地の、水利不便の労を解消しようと、一念発起した。
平司は灌漑用地下水路を完成し、続いて昭和六年初め、農道洞門の開削に、独力を以て立ち上がり三年五カ月の苦闘の末、遂に完成した。
人々呼んで「平司洞門」という。
後年、夷隅レクリエーション用地造成整備のため消滅する。
なんてこったい、個人が開削した隧道だったのか!しかも、この隧道を掘る以前に水路隧道も掘っていたとは。
さらなる情報はないかと、ネットで調べたところ情報がヒットした。以前、茶屋場隧道跡の記事でお世話になったBOSO LEGENDさん(http://www.boso-legend.com)だった。その節はお世話になりました。
その「房総の偉人」コーナーにある「平司洞門」(←クリック)の項により詳しい情報があった。
それによると、「あんやろうは、かわったやろうだ・・・ 」「いつになったらできるやら、頭がおかしくなったのでは・・・」と言われながらも掘削した水路隧道が延長120メートルにもなるということ、隧道はやはり独りで工事をはじめたものの、当時の町長さんがその姿に感動して、陸軍工兵隊の応援を要請したことなどが書かれている。是非併せてご覧いただきたい。
(´-`).。oO(独りで林道工事している某氏も「かわったやろうだ」とか「頭がおかしく」なんて言われてもくじけず頑張ってもらいたいなぁ)
切り通し(隧道跡)を北西側より。
すっかり付近の姿は変わってしまったが、平司さんの業績は記念碑が末永く伝えてくれることだろう。
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銭形平次捕物控作品集 92作品合本版
【所在地】夷隅郡御宿町須賀
【竣工】1934(S9)年
【延長】不明
【幅員】不明
【高さ】不明
2015年7月26日訪問
御宿町須賀(すか)、現在地はココ(←クリック) 北を向いている。この交差点を左折する。
この先、西武が開発した巨大なニュータウンがある。でも「←東京 千葉」ってのは、ちょっと行き先案内としてあまり適当でないような気がする(^-^;
この先にかつて隧道があった。
(この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。)
さて、今昔マップを見てみよう。左は昭和56年修正、昭和57年4月30日発行の地形図。そして右は現在の地形図だ。赤丸の中が本日取り上げる隧道跡。
次は航空写真を。これは国土地理院が1975年1月23日に撮影した航空写真を(CKT7414-C15B-34)拡大したもの(色調も若干修正してある) 是非、国土地理院のサイトでオリジナルの写真を見ていただきたいが、ほんの数十年で周囲の様子が一変したことがわかる。むしろ開削されはしたものの隧道のあった一帯の方が変化していない方だ(^-^;
隧道跡に行く前にちょっと寄り道を。先ほどの航空写真にあるA地点にいる。この細い分岐はどうやら旧道のようだ。
旧道の先にあったのは、お金持ちの別荘なのか企業の保養所なのかわからないが、3階建のゴージャスな建物。以前はこの奥が農地になっていたようだ。
旧道と現道が再度合流する地点。今では階段になっている。
現道に出ると、今度はその反対側に旧道があった(^-^; ひょっとしたら、現道のこの部分は土盛りしたのかもしれない。
ただでさえ細い道は左右からの雑草の浸食により、通れる部分がさらに細くなっている。かつては農作業のおっちゃんが軽トラを走らせていたのだろうか?
この道が残された理由は、道沿いに数軒の民家があるからだろう。ただ、その民家への入口も草木で覆われていていた。
100メートル足らずで現道に合流する。
現道から合流地点を振り返る。
ちなみに、現道区間のようすはこう。
山の上に続く階段もあったりするのだが、その手前のコンクリの打ってある部分が民家の入口(敷地?)なので、ズカズカと入り込むのは遠慮しておいた(^-^;
さて、坂のピークが近づいてきた。そろそろ隧道跡か。
この辺りがかつての谷津の行き止まり地点。そして隧道の坑口があったのだろう。
進行方向向かって右側の法面。
そして、左側の法面。
切り通しを過ぎると右手に記念碑があるのに気付いた。
「平司洞門記念碑」(゚д゚)ハッ!!
裏に回ると解説まで。
神定平司は明治二十八年(一八九五)須賀農業神定仁蔵の二男として生まれる。
農業を営む傍ら、付近の人々の山越えの農作業と、谷合い農地の、水利不便の労を解消しようと、一念発起した。
平司は灌漑用地下水路を完成し、続いて昭和六年初め、農道洞門の開削に、独力を以て立ち上がり三年五カ月の苦闘の末、遂に完成した。
人々呼んで「平司洞門」という。
後年、夷隅レクリエーション用地造成整備のため消滅する。
なんてこったい、個人が開削した隧道だったのか!しかも、この隧道を掘る以前に水路隧道も掘っていたとは。
さらなる情報はないかと、ネットで調べたところ情報がヒットした。以前、茶屋場隧道跡の記事でお世話になったBOSO LEGENDさん(http://www.boso-legend.com)だった。その節はお世話になりました。
その「房総の偉人」コーナーにある「平司洞門」(←クリック)の項により詳しい情報があった。
それによると、「あんやろうは、かわったやろうだ・・・ 」「いつになったらできるやら、頭がおかしくなったのでは・・・」と言われながらも掘削した水路隧道が延長120メートルにもなるということ、隧道はやはり独りで工事をはじめたものの、当時の町長さんがその姿に感動して、陸軍工兵隊の応援を要請したことなどが書かれている。是非併せてご覧いただきたい。
(´-`).。oO(独りで林道工事している某氏も「かわったやろうだ」とか「頭がおかしく」なんて言われてもくじけず頑張ってもらいたいなぁ)
切り通し(隧道跡)を北西側より。
すっかり付近の姿は変わってしまったが、平司さんの業績は記念碑が末永く伝えてくれることだろう。
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