【点名】片貝(かたがい)
【基準点コード】TR15340234601
【等級種別】一等三角点
【所在地】山武郡九十九里町大字小関字浜芝2214番2
【選点】1896(M29)年12月22日
【設置】1897(M30)年11月29日
【緯度】北緯35度32分27.8865秒
【経度】東経140度27分21.2403秒
【標高】2.88m
2018年2月18日訪問
初っ端から墓地の写真(^-^; ここは九十九里町小関、片貝漁港の直ぐそば、かつ作田川の河口のすぐ近くである。現在地はココ(←クリック)
墓地の中に、妙に存在感のある石版がある。ってか、あれは墓石じゃないよね!?
「真忠組」!?
「真忠組志士墓表」でいいのかな?墓標じゃないのかと思ったが、墓表と表記することもあるらしいので、たぶん?
明治の黎明に魁て、全国の憂国義勇の志士と同調し、救国済民倒幕攘夷の為め決起して犠牲となった天朝の赤心同盟「真忠組」志士諸英雄の冥福を祈念し奉る。
伏惟、首領楠音次郎、本名「樋山民部」は烏山城主大久保候(譜代・三万石)に仕官せしが、藩論と意見合わず脱藩、妻子を残して江戸表へ出て「尊攘派」と連携実践活動を画策すること数年、当地に来住、旅籠「大村屋」に止宿、千葉源治郎並に三浦帯刀(副首領)と共に、攘夷世直しと窮民救済を大義名分に「真忠組房総支配所」を設置し、農漁民紺屋等各層の者を糾合「真忠組」を結成し、大村屋を本陣とし、茂原・八日市場等を拠点として、武具・米穀・資金等を拠出させ「借用書」を与えて、攘夷戦力充実の実践行動に移った。
かくて、当時の「幕藩体制」の世状の下、志士等の決起趣意心情が一般領民へ理解浸透せず、遂に元治元年(西紀一八六四)一月十七日、佐倉・福島・一ノ宮等の各藩千六百余の藩兵により本陣大村屋が急襲され、首領楠音次郎以下六名討死、副首領三浦帯刀等六名は救援の途上捕らえられ各々当所にて打首獄門となる。その他残余四十一人の者は離散するに至った。楠音次郎の法名は「徹箭院勇心良義居士」と称し菩提寺の過去帳に記載されている。
顧るに志士等の行動たるや憂国純真義心に基づくと言えども、時に適わず、不逞不良の輩と称せらる。
茲に志士等逝いて百三十年、歴史観の進歩展開は、志士等が行動の評価初めて正鵠を得たるものとなる。志士等の英霊以って冥す可きものか。よって今般楠音次郎の子孫の一員として、此処に墓碑を建立し先祖の遺業を顕彰し之を後昏に傳えんとす。
平成五年十月十七日
楠音次郎曽孫
撰文 白石聰 建之
栃木県小山市城東三-二十一-二十三
真忠組というのは幕末に世直しのために武装蜂起したが、2ヶ月程で鎮圧されたグループのようだ。太平天国や東学党みたいなものなのだろうか?フランス革命や明治維新のようなごくわずかな成功例の影にこのように散っていった無数の人たちがいたのだろう。
それから、後で地図を見て気づいたのだが、このすぐ近くに鎮魂碑もあった。今度近くに行くことがあったら寄ってみよう。
※ ※ ※
さて、墓地を後にし、その脇の道を進む。
突き当りを、
左に進み、
その先の建物。
「籠居堂」 集会所かな??(^-^;
さらにその奥には、
小さなお社。規模は小さいが、ちゃんと鳥居も手水舎もある。
鳥居。
この地殻にあるはず、とウロウロすると、境内から外れたところに見えた。
向こうの道から来たほうが早かったかな(^-^; でも、真忠組の碑も見られたからいいか(^-^;
木製の標示杭が倒れかかっている。
一等三角点・片貝。一等なので標石も大きい。
時計回りに、
周囲を一周。
設置されたのは1897(明治30)年のこと。真忠組のこともまだリアルタイムで記憶されていた頃だ。
120も経っているのに古びた感じがしない。
ICタグ付き。
奥に見えるのは片貝漁港。
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