【名称】上川橋(かみかわはし)
【所在地】君津市川谷
【竣工】1961(S36)年3月
【延長】約20m(目測)
【幅員】約3m(目測)
2015年8月2日訪問
前回(2012年3月18日)
君津市川谷、千葉県道32号にて。現在地はココ(←クリック) 見下ろすと橋が見える。本日のお題はこの橋とその先の隧道。
目的地への橋は1枚目の写真から150メートル程西に進んで左折するのだが、判りにくいので、写真は一旦そこを通り過ぎて振り返ったところ。ここを右に入ることになる。いかにも民家の庭に入ってしまいそうな道。知っていなければ、地図を見ながらでも入るのが不安になってしまうだろう(^-^;
路地に入るといきなり穴に遭遇。物置に転用された防空壕跡だろうか。茂原周辺でウジャウジャと見かけるタイプの穴だ。
実は、すぐそばに住人の方がいたので、のぞき込んだりせず、ササッと一枚だけ写真を撮って通過(^-^;
一旦広くなった道が再び一気に狭くなる。写真はパノラマ合成。
竹藪を過ぎると冒頭の写真に写っている橋の登場だ。北側より。
先日紹介した細田橋の項でも同じ事を言ったが、典型的な昭和30年代風の欄干の橋。雰囲気は鯉見橋に似ているが、こちらはれっきとした現役の車道橋。
北側右の親柱。「上川橋」
以前は欄干のすぐ手前、普通の位置に親柱があったのだが、なぜか手前に真新しい親柱が置かれていた。扁額は以前のものと同じようなので、親柱だけ新しくしたのか、それとも古い親柱にコンクリを塗ってリニューアルしたのか。
北側左の親柱。「御腹川」
移動した右の親柱、A型バリケード、土嚢・・・ ここで一体何が起こったのだろう?(^-^;
橋の上から西の下流方面を望む。
この御腹川の名前の由来は、第39代天皇・弘文天皇に由来する。弘文天皇というより大友皇子と言った方がピンと来る方が多いと思われる。飛鳥時代、父・天智天皇の没後、その後継を叔父の大海人皇子(天武天皇)争う、いわゆる壬申の乱で敗れ自害した天皇だ。
その弘文天皇が敗走して房総まで落ち延び、この川の近くで腹を召して自害した、という伝説に由来してこの名がつけられたという。
しかし、伝説はあくまで伝説。通説では近江国(滋賀)で首を吊って自害したということになっている。そもそも割腹自殺という習慣が飛鳥時代にあったのか…(^-^; Wikipediaの切腹の項によれば、日本で最初に切腹したのは、平安末期(1170年)の源為朝だというではないか。「正確性に疑問が呈されて」はいるものの、それでも時代的に約500年のズレがあるので、夢はないのだが眉唾物の伝説かと(^-^; 一応、平凡社の世界大百科事典も見てみたのだが、その記述は寄り曖昧で「平安時代にはじまり」となっていた。
そうそう、これまた先日紹介した養老川支流の蕪来川にかつてあった川廻しの隧道・弘文洞も弘文天皇伝説に由来するのだった(^-^; それから、ちょっと関係が薄いのだが、御腹川の本流である小櫃川の名前もヤマトタケルの東征伝説に由来している。
古代日本において辺境の地だった上総にのこる皇族関係の伝説… 伝説自体よりもそれが生まれた経緯が知りたいかもw
東の上流方面。
そうそう、古代神話に想いを馳せるのも楽しいのだが、橋の先に素敵なものが待っている。
ということで、ここは大急ぎで片付けてしまおう。
南側より。
南側右の親柱。「かみかわはし」
南側左の親柱。「昭和三十六年三月竣工」
※ ※ ※
【名称】川谷第一隧道(かわやつだいいちずいどう)
【所在地】君津市川谷
【竣工】不明
【延長】42m(「平成16年度道路施設現況調査」より)
【幅員】3.5m(同上)
【高さ】2.5m(同上)
2015年8月2日訪問
前回(2012年3月18日)
さて、上川橋を渡るとすぐ目の前に素掘隧道が登場する。
北側坑口。
北側坑口から内部を望む。
内部から見た北側坑口。
内部の照明。写真では解りにくいが、LEDライトのようだった。
壁面の突起。何か目的があってこのように施行されたのかと表居たのだが、他の隧道で同じようなものを見かけた。しかもよくよく見ると、この部分の地層の色が違う。ということは、ここだけ周囲より固い地質だってことか?だとすると、元々はもっと幅員が小さかったということ?
こんな素掘りだが、路盤は舗装されていて立派に車を通している。
南へ抜ける。
南へ抜けると…
その先に次の隧道も待っている。そちらはまた今度。
振り返って、南側坑口を。
南側坑口から内部を望む。
※ ※ ※
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狂気のなかにいた役者 川谷拓三伝
【所在地】君津市川谷
【竣工】1961(S36)年3月
【延長】約20m(目測)
【幅員】約3m(目測)
2015年8月2日訪問
前回(2012年3月18日)
君津市川谷、千葉県道32号にて。現在地はココ(←クリック) 見下ろすと橋が見える。本日のお題はこの橋とその先の隧道。
目的地への橋は1枚目の写真から150メートル程西に進んで左折するのだが、判りにくいので、写真は一旦そこを通り過ぎて振り返ったところ。ここを右に入ることになる。いかにも民家の庭に入ってしまいそうな道。知っていなければ、地図を見ながらでも入るのが不安になってしまうだろう(^-^;
路地に入るといきなり穴に遭遇。物置に転用された防空壕跡だろうか。茂原周辺でウジャウジャと見かけるタイプの穴だ。
実は、すぐそばに住人の方がいたので、のぞき込んだりせず、ササッと一枚だけ写真を撮って通過(^-^;
一旦広くなった道が再び一気に狭くなる。写真はパノラマ合成。
竹藪を過ぎると冒頭の写真に写っている橋の登場だ。北側より。
先日紹介した細田橋の項でも同じ事を言ったが、典型的な昭和30年代風の欄干の橋。雰囲気は鯉見橋に似ているが、こちらはれっきとした現役の車道橋。
北側右の親柱。「上川橋」
以前は欄干のすぐ手前、普通の位置に親柱があったのだが、なぜか手前に真新しい親柱が置かれていた。扁額は以前のものと同じようなので、親柱だけ新しくしたのか、それとも古い親柱にコンクリを塗ってリニューアルしたのか。
北側左の親柱。「御腹川」
移動した右の親柱、A型バリケード、土嚢・・・ ここで一体何が起こったのだろう?(^-^;
橋の上から西の下流方面を望む。
この御腹川の名前の由来は、第39代天皇・弘文天皇に由来する。弘文天皇というより大友皇子と言った方がピンと来る方が多いと思われる。飛鳥時代、父・天智天皇の没後、その後継を叔父の大海人皇子(天武天皇)争う、いわゆる壬申の乱で敗れ自害した天皇だ。
その弘文天皇が敗走して房総まで落ち延び、この川の近くで腹を召して自害した、という伝説に由来してこの名がつけられたという。
しかし、伝説はあくまで伝説。通説では近江国(滋賀)で首を吊って自害したということになっている。そもそも割腹自殺という習慣が飛鳥時代にあったのか…(^-^; Wikipediaの切腹の項によれば、日本で最初に切腹したのは、平安末期(1170年)の源為朝だというではないか。「正確性に疑問が呈されて」はいるものの、それでも時代的に約500年のズレがあるので、夢はないのだが眉唾物の伝説かと(^-^; 一応、平凡社の世界大百科事典も見てみたのだが、その記述は寄り曖昧で「平安時代にはじまり」となっていた。
そうそう、これまた先日紹介した養老川支流の蕪来川にかつてあった川廻しの隧道・弘文洞も弘文天皇伝説に由来するのだった(^-^; それから、ちょっと関係が薄いのだが、御腹川の本流である小櫃川の名前もヤマトタケルの東征伝説に由来している。
古代日本において辺境の地だった上総にのこる皇族関係の伝説… 伝説自体よりもそれが生まれた経緯が知りたいかもw
東の上流方面。
そうそう、古代神話に想いを馳せるのも楽しいのだが、橋の先に素敵なものが待っている。
ということで、ここは大急ぎで片付けてしまおう。
南側より。
南側右の親柱。「かみかわはし」
南側左の親柱。「昭和三十六年三月竣工」
※ ※ ※
【名称】川谷第一隧道(かわやつだいいちずいどう)
【所在地】君津市川谷
【竣工】不明
【延長】42m(「平成16年度道路施設現況調査」より)
【幅員】3.5m(同上)
【高さ】2.5m(同上)
2015年8月2日訪問
前回(2012年3月18日)
さて、上川橋を渡るとすぐ目の前に素掘隧道が登場する。
北側坑口。
北側坑口から内部を望む。
内部から見た北側坑口。
内部の照明。写真では解りにくいが、LEDライトのようだった。
壁面の突起。何か目的があってこのように施行されたのかと表居たのだが、他の隧道で同じようなものを見かけた。しかもよくよく見ると、この部分の地層の色が違う。ということは、ここだけ周囲より固い地質だってことか?だとすると、元々はもっと幅員が小さかったということ?
こんな素掘りだが、路盤は舗装されていて立派に車を通している。
南へ抜ける。
南へ抜けると…
その先に次の隧道も待っている。そちらはまた今度。
振り返って、南側坑口を。
南側坑口から内部を望む。
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