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成田ニュータウンに残る遺構たち

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【名称】宝徳寺観音堂(ほうとくじかんのんどう)
【所在地】成田市玉造
【建立】1684(貞享元)年、2011年焼失
【再建】2013年頃?
 

2017年6月11日訪問

 

 

成田市玉造(たまつくり)、成田ニュータウンの北端にある外小代公園の駐車場から出発。

 

 

公園内には多数の古墳があるが、それは以前見たので今回はとりあえずスルー。だが、公園南側の交差点に見える空き地。あれも古墳(公津ヶ原29号墳)だ。

 

 

そして、その隣には公津ヶ原28号墳が。

 

 

案内板の小山が28号墳なのだろう。

 

 

住宅地の中をウロウロしていたら九十九折のスロープに出た。今いるのはココ(←クリック)。

 

 

下の車道に出て南に進む。

 

 

少し進むと左手に由緒ありげな建物が見えた。今いるのはココ(←クリック)。

 

 

宝徳寺観音堂。

 

 

南側に案内板があった。それによると、この観音堂は1684年に建立されたもとのこと。「一名六角堂と呼ばれ県内でも数例しかなく建築史上注目に値する建造物」だということなのだが、、、

 

 

おかしいんだよなぁ、、、

 

 

とても300年以上前の建物には見えないんだよなぁ。。。んー、まぁ、柱はちょっと古い材木っぽいけど、、、

 

ということで、帰宅後に調べてみると、なんと、この観音堂、2011年8月に火事(不審火)で全焼していたという事が判明( ;´Д`) 現在の建物はその後再建されたものらしい。

 

 

オリジナルの観音堂は茅葺き屋根で、釘を一本も使わない造りだったようだが、、、今じゃ釘なしでは無理なのね。てか、そんな腕を持った宮大工さんが雇えなかったのかな?(^-^;

 

 

由緒ありげな古木もあった。

 

 

木隠れ観音の由来

この古木に包まれた石佛は「木隠れ観音」と呼ばれ

「この観音様が隠れて見えなくなる時この土地は発展する」

言い伝えられて来ましたが当時は山林と畑に囲まれた

淋しい処で誰も無想だにしませんでした

然し今この言い伝えが現実のものとなり周辺が

市街化するを見るにつけ先人の残された言い伝えの

中に子孫への期待感と未来への願望を見る

思いがします。

刻々と移り行く人生の中で正しい信仰を持ち

先人・古老の教えを大切にしこの伝承を子孫に

伝えて行き度いと念じております。

                       宝徳寺 照文敬白

 

この木隠れ観音の説明文、どうやら言葉通りに理解していいらしい。つまい、この古木の中に観音像が埋まっているらしいのだ。昭和40年代頃までは木の根元に開いた穴から覗くと台座らしきものが見えたらしいが、今では全く見えなくなってしまったという。

 

 

いや、現地では、奥に見える社の事を言ってるのかと思ったのだ。木が茂ってパッと見ではわからなくなったら、という程度の意味かと(^-^;

 

 

でも、この祠の中にあるのは、、、

 

 

観音様じゃないよね(^-^;

 

 

ところで、この2つの社だが、お寺の境内からだと、古木の奥に位置するのだが、これが外の歩道から丸見え。なんだかちょっと格好悪いなぁ(^-^;

 

     ※     ※     ※

 

【名称】公津ヶ原21号墳・天王塚古墳
【所在地】成田市吾妻
【竣工】不明
【全長】63m
【高さ】4m

 

2017年6月11日訪問

 

 

さて、少し移動して、今いるのはココ(←クリック)。

 

 

またしても古墳だ。この21号墳は全長63mの前方後円墳。公津ヶ原古墳群の古墳の中でも最大規模のものだ。現在、古墳の上には八坂神社と浅間神社の祠がある。

 

 

西側の八坂神社。ここが前方部になるらしい。

 

 

そして、浅間神社のある後円部。写真はパノラマ合成。

 

 

前方部分の全景。

 

 

浅間神社の祠。

 

 

南側より。古墳全体が杉林の中にある。そこだけが開発以前の姿を残している。写真はパノラマ合成。

 

     ※     ※     ※

 

【名称】吾妻神社
【所在地】成田市吾妻
【創建】不明
 

 

2017年6月11日訪問

 

 

21号墳のすぐ隣に神社がある。

 

 

案内板を見ると日本武尊の名が。ありゃ、ここも日本武尊の東征伝説と関係あるのか(^-^; って、吾妻の地名もそれに由来しているのね。で、日本武尊が東京湾を渡るためにその身を犠牲にした弟橘姫の遺品をこの地に納めたのだとか。。。

 

 

大正から昭和にかけて、「縁日の時には、南側に伸びていた約五十メートル程の参道に、数十軒の出店が建ち並び大層賑わった」とのことだが、今ではその時の面影はまったくない。というか、「南側の参道」自体が跡形もなくなっているし(^-^;

 

 

拝殿裏手の本殿へ。

 

 

本殿の周囲は、この規模の神社にしては今時珍しく綺麗。住宅地の中なので、地域の人がまめに掃除しているのかもしれない。

 

それにしても、これだけ本殿の背後があけすけになっていると、ちょっと気恥ずかしい気持ちになってしまう。そもそも大抵の場合、神社は本殿の裏は壁や崖があったり、木が密生していたりして、こう広々と無防備な姿はしていないもの。

 

そう、まるで、隙のなく身だしなみを整えたお姉さんだが、後ろから見ると、実はうっかりスカートをパンツに巻き込んでしまっていた姿を見てしまった的なというかなんというか。しかも、ここにいると、民家の裏庭も丸見えになってしまうのだ。

 

ということで、なにも悪いことをしている訳ではないのだが、ここは足音を忍ばせ早めに退散(^-^;

 

     ※     ※     ※

 

 

調べてみると、他にも面白いものを見つけた。昔の航空写真である。まずは1965年9月30日に国土地理院が撮影したもの(MKT653X-C8-6)を拡大・加工したもの。成田ニュータウンはまだちゃっこうされておらず、今と全く様子が違う。そもそも、道さえ今と全く違うところを通っている。西側の谷津が今とあまり変わらないので、それを頼りになんとか場所が特定できたが、この部分だけ見せられてもどこなのかさっぱり解らなかったと思う。賑わっていたという吾妻神社の南側の参道も写っている。

 

 

次は1975年1月3日に撮影されたもの(CKT7413-C5B-28)。同じく拡大・加工してある。こいつはビックリ。10年前にあった水田は見事につぶされ、荒野になっている。そして、本日の記事で取り上げた遺構の箇所だけが切り取られたかのように残っている。ニュータウンの設計が最初からこれらだけは残した形で進める予定だったことがわかる。

 

それにしても、この開発ぶり。まるで「平成狸合戦ぽんぽこ」を見るようだ。いや、実際、タヌキを含む多くの山の仲間達が追い出されたのだろうなぁ(^-^;

 

 

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