【名称】豊里特攻基地(推定)
【所在地】銚子市某所
【竣工】1945(S20)年ごろ?
【訪問日】2016年8月7日
今回は戦跡。詳しい場所の公開は控える。ヒントは幹線道路沿いにあったこの看板。とはいえ、3年近く前の探索なので、今もまだ残っているのか否かはは不明 (^ー^;
拙ブログで取り上げる物件、以前は訪問したい方の便宜をはかるためになるべく場所をわかりやすく説明するようにしていた。自分も先人の情報に助けられていたので、自分もそうするのが当然のことと思っていたのだが、最近になって諸々の事情から心境が変わった。
気づいている方もいるかもしれないが、最近、千葉の秘境的なスポットをガチで訪問している人のネット上での活動が尻すぼみ気味になっている。あくまで、ネット上での活動が低下気味であるに過ぎないのだが、それにはちょっと嫌な理由があったと聞いている。残念なことだが、趣味の話なので仕方がない。おいらはヘタレ組だが、理由は似ていなくもない。とはいえ、さり気なくヒントを埋め込むようにはしようかと思っているけど。。。
ということで、「場所を懇切丁寧に説明して探索の手助けをする」という方針を撤回すると、今まで自制して、溜め込んでいた戦跡関連のストックを放出したくなるという副作用が起こったのだ(^-^;
さて、この写真はウ●コ看板の向かい側を山の中に進んできたところ。前方のふたりは、のだの人氏とまきき氏。やはり、ふたりとも最近はネット上での活動「は」停滞気味。その意図がおいらと同じなのかはわからないが、それはさておき、両名ともオフラインでの活動は未だに活発。二大巨頭が地下に潜ってしまったのは残念ではあるが、まぁ、本人の意向なので仕方ないね(^-^;
前の写真から数十メートル進んだところ。本題の震洋の基地はこの先だが、川から一本の水路が分岐している。
振り返ると水路隧道が。
いわゆるニ五穴より一回り大きいのだろうか。でも、長靴が水没しそうだったので、入洞は断念。
川の現れた地点から少し藪こぎすると、第一の穴が登場。なぜか物件の手前で様子をうかがうあったんさん。そして、すでに入洞して内部図を作成中なのは祐実総軍三等兵さん。
奥行きは20メードルほどだろうか、壕口が若干崩落した土砂で埋まっているため内部は水没している。幅、高さ約3メートルほどの穴だが、タイトルにもある通り、太平洋戦争末期に開発された特攻艇・震洋の基地の跡と推測される。
震洋の詳細については、Wikipediaの解説をみていただければわかりやすいと思うが、簡単に説明すると、太平洋戦争末期に開発されたモーターボートに爆弾を積んだ特攻兵器である。そして、2500人以上の搭乗員が戦死したという。
数メートルとなりに別の入口が。
内部から豪口を。なお、最初の穴と横坑で繋がっている。
奥に出口があった( ゚д゚)ハッ!
これぐらいの傾斜ならまぁ、余裕(^-^;
登りきって出た先からの振り返り。
さて、さらに奥に行くと次々と新たな壕が見つかる。写真に写るガタイのいい方はmaya46氏。「オレ、勝ち勢じゃないからさぁ」とヘラヘラしているが、充分ガチ勢に見える。
水没した壕から奥を覗くと、前方から強烈なライトの光が。ヤツだ!( ゚д゚)ハッ!
って、おいおい、水没してないかい?
この日、遅刻してきた彼に、冗談半分で「じゃあ、ジャブジャブしてきてねー」と言ってみたら、なんと実行してしまったのだ。念のために言っておくと、まったく強要していないので(^ー^;
「涼しくて気持ちいいですー(*´Д`)ハァハァ」と変態行為に目覚めてしまったまきき氏。でも、長靴で水没してもなぁ(^ー^;
更に奥に行くと、またまた壕が。
川沿いに開いた壕口。
奥の壕は泥が溜まっていた。実は、この奥で長靴が抜けなくなりそうで涙目になったのはココだけの話(^ー^;
今は推移の低い川だが、当時は堰で水位を上げてから出撃するつもりだったのだろうか、それとももっと多くの水をたたえた川だったのだろうか。
いずれにせよ、戦跡を訪ねるたびに思うのが、こんなものを作った当時の人々の思いだ。後から見れば、結果的には全く無益な行為だったことになるのだが、そんな軽率な一言では片付けられない行為の重みを噛みめなければいけないと思うのだ。