【名称】日立航空機・大網工場
【所在地】山武郡大網白里町大網
【竣工】1944(S19)~1945(S20)年頃?
2012年8月12日訪問
本日の物件は隧道ではない。
右手にある説明板。全文引用しよう。
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戦蹟 日立航・大網工場跡
日立航空機(株)千葉製作所大網工場の建設工事は、昭和19年12月頃に開始された。その背景には、第二次世界大戦で日本の戦局が悪化し、10月に千葉市にあった同工場が空襲を避けて、大網に疎開計画を立てたことに始まる。
施設は、地下・半地下の二種類あり、地下工場は海抜30~70m程の笠森層に造られた幅4m、高さ4mの蒲鉾[かまぼこ]型の施設で、五か所の工場に分けられ総延長3kmであった。半地下工場(伏土[ふくど]工場)は、間口10m、奥行き20~30mで厚板を五重六重に張り、土砂で覆い、芝や草を植え擬装した。実際に三十数箇所の施設が確認されていたが、残念ながら現存していない。『米国戦略爆撃調査報告書』には、「本格的に製造が開始されると日本でも優れた工場の一つになったであろう」「地下・半地下工場共に各二箇所が稼働していた」ときさいされている。この施設では、海軍零式戦闘訓練機(機体)と発動機(航空エンジン)の部品が生産された。
工場の建設は、軍・日立航及び大林組の三者により厳しい統制下で行われた。軍の設営隊や社員・工員の他に婦人会や大網国民学校(現大網小学校)の児童までがもっこ担ぎ等の勤労奉仕に従事した。特に工場建設のために雇用された数百人におよぶ朝鮮人の強制労働によって行われていた。
戦時における我が国は、アジア諸国やその他の人々に甚大な禍害を加え、自らも多大な被害を被ったことを決して忘れてはならない。
戦争という悲惨な行為を二度と繰り返すことの内容「地球は一つ」「生命の尊厳」更に「恒久平和」への願いを込め、この戦蹟説明板を設置した次第である。
二〇〇〇年八月
日朝友好大網白里町民の会
大網白里町教育委員会
※ ※ ※
本格稼働時期が不明だし、深読みすると微妙な表現があるような気がしなくもないが、概要はこれでわかった。
再び東側より。
まきき氏がさっそくフェンスに張り付き、ハァハァ言い出した。
( ゚д゚)ハッ!
もしかして、エ●本や●ロビ●オが落ちているの???
あわてて、まきき氏を蹴散らし中をのぞき込む。(こういう展開、以前もあったなぁw)
内部は水没。そして数メートル先で穴は閉塞しているようだ。残念!もっとも、先まで延びていても進入は不可能だが(^-^;
案内板によれば、左にまだあるはず。
竹藪の中に歩みを進めた。
アッター!!!
ぬかるみ気味の掘り割りに降りて正面から。
あともう一本あるはずだが、この日はこれで終了、なにしろ2人ともスニーカーだったし、それに、
竹藪の中はこんな虫の塊がブンブンと。真夏だったからなぁ(^-^; この付近、まだまだ謎がいっぱい。
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