【所在地】夷隅郡大多喜町小田代/伊保田
【竣工】1935(S10)年(「隧道データベース」より)
【延長】81m(同上)
【幅員】5m(同上)
【高さ】4.5m(同上)
【撤去】1982~84年頃
2015年6月14日訪問
大多喜町にある小湊鉄道・いすみ鉄道の上総中野駅。ここの駐車場から出発。
さて、駅を出発し、国道465号を西に。現在地はココ(←クリック) 10時の方角を向いている。この先で国道は左折するのだが、その少し手前に交差点をショートカットする道がある。
右が国道。すぐ先の茶色の看板が立っている交差点で左折すればよい。そして左がそのショートカットの道。確か車で2回程通った事がある。一度は好奇心で、そしてもう一度は前に黒煙を出しながら時速20キロぐらいで走っていた軽トラをパスすすために(^-^;
ってか、またパトカーが獲物を狙っている。この先に小湊鐵道の踏切があるのだが、養老渓谷方面から来るとカーブを曲がった先でいきなり踏切に出くわす感じになる。観光地なので知らずに突っ込んでしまう車も多いのだろう(←身に覚えのある男) こういうポイントはよく知っているんだなぁ(-_-; ちなみに、この時間(15時33分)、小湊鐵道の養老渓谷-上総中野間は2時間ほど列車が通らない時間帯の真っ最中なのだけど… ま、そんなの関係ないってことなんだろうけど…
※ ※ ※
養老渓谷方面に少し進むと法面に半分埋まった祠があった。車で走っている時には気付かなかったなぁ。現在地はココ(←クリック)
庚申様と馬頭観音が祭られているようだ。
隙間から覗いて撮影した庚申塔。見ざる、聞かざる、言わざるもいるしw
そして、馬頭観世音。
※ ※ ※
さらに進むと真新しい落石よけのネットがあった。現在地はココ(←クリック)
あるに越したことはないのだろうが、ちょっと大げさなように見えなくもない。それから、どうやら上に道があるようだ。旧道にしては細すぎるけど、作業道なのかはたまた古道なのか…と思いながら見ていると…
仏像が並んでる!?(゚д゚)ハッ!!
そして国道沿いには石碑が祭られた祠?らしき建物も。
念願成就祈願塔!?
石碑と左右に仏像が一体ずつ。
「■大乗妙典 日本 廻国 大願成就塔」?
右側面。「一心大徳 安政六禾 蔵 十月廿八日 安房國清澄山 ■■」
禾と千が縦に組み合わさって、「年」の異字体になるらしいということを以前コメント欄で教えていただいたが、これも「年」の意味だろうか?いずれにせよ、安政六までは確かなので、幕末に造られたもののようだ。
左側面。「豊後國速見郡 ■(木偏に手?)築領中村産 行者一心坊」
ぶっちゃけよく解らない(^-^; 祠を後にして振り返るの図。法面の上にある道と関係がありそうだが、そこへのまともなアクセスルートは見つからなかった。写真は省略するが、東側の藪から無理矢理よじ登れそうな雰囲気ではあったのだが、この時期に藪に入るのは自殺行為(ヤマビル天国に突撃)なのでもちろん無理はせず。
※ ※ ※
さて、ようやく本日のお題に近づいてきた。お題の隧道跡はこの右カーブの先にある。さて、では予習を。
(この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。)
左は昭和55年修正、昭和57年4月30日発行の地形図。右は現在の国土地理院発行の地形図。見ての通り旧版地形図にしっかりと隧道の記号が記されている。
隧道データベースを調べたところ、どうやらこれは隧道No.580の茶屋場隧道(車道幅員5m、限界高4.5m、竣工年度1935年)のようだ。
次は航空写真でチェック。これは国土地理院が1975年1月6日に撮影した航空写真(CKT7414-C9B-7)を拡大加工したもの。ポータルまでは確認できないが、確かに隧道は存在するようだ。そして驚いたのは隧道から南西の現在植林稚となっているフラットな一帯が当時は山だったということ。山が丸ごとなくなってしまったようだ。
なお、隧道の開削時期だが、1982年12月10日の航空写真(KT826X-C10-1)では不明瞭ながらまだ隧道が残っているように見える。そして1984年5月9日撮影の航空写真(KT842X-C4A-19)では明らかに消失しているので、この間だと思われる。
ところが、話はこれだけでは終わらない。
(この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。)
こちらは昭和19年部修・昭和22年5月30日発行の地形図。現在と道の線形が違う!旧道か?ただし注意しなければならないのは、茶屋場隧道が昭和10年に竣工しているということ。現に1946(S21)年の航空写真には隧道の姿が映っている。もっともこの手の地図の誤記をいちいち突っ込んでも仕方ないのだが(^-^; これも最近話題の(?)DMYか?w(註)
※註:DMYとは… 説明しよう(-ω-)∩ コレは「D主任と部下のMがやらかした件」の略。と言っても、ぶっちゃけ、おいらが妄想した架空の物語なので、真剣に知る必要のないテクニカルターム。詳細は「坂畑の廃旧道」の巻を参照のこと。なお、まきき氏はコレが「ダメなヤツ」の略だという新解釈を提唱している。
さて、与太話は置いておくとして… (^-^;
(この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。)
さらに時期を遡って、今度は明治36年測図・明治39年6月30日発行の地形図を。右は現在の航空写真。先ほどの1975年の航空写真と見比べると、山が丸ごと無くなっているのがよく判る。
そして地形図だが、なんと、こちらには2本の隧道が描かれている(゚д゚)ハッ!!
これらから、いつもながらちょっと乱暴に推測してみると…
昭和10年に茶屋場隧道が建設される以前は現道より南に道があり、途中に2本の隧道があった。しかし、昭和10年に現在のルートに茶屋場隧道を擁する現道が開通。そして昭和末期に隧道は開削された、という変遷があったのでは。
それから、旧道にあったと思われる2本の隧道… これが非常に微妙なところなのだが、航空写真の変遷を見る限り、平成の初期にザクッっと削られてしまったのではないかと。いずれは再調査しようとは思うのだけど…
とまぁ、憶測を並べてみても仕方がないので、まずは旧道方面に向かってみよう。とは言っても、それらしい痕跡がないので、これが旧道と言える自信は全くないのだけど。まぁ、そんなにズレてはいないとは思うのだが(^-^;
さて、旧道(?)に入った途端、思いがけないものに遭遇。石碑だ。もしかして、隧道についての記載があったり?
「接待記念碑」
………どゆこと?????(^-^;
接待というと、官官接待とかノーパンしゃぶしゃぶとかを連想してしまうのは昭和世代の性か(^-^;
さて、隧道についての記載があるのかと期待して、必死に文字を追ってはみたものの、これがえらく読みにくい。一行が2メートルもあって旧漢字混じり、おまけに苔むして見にくかったりして、飛ばし読みもままならない( ;´Д`)
無茶苦茶雑な理解だが… 「ここ昔から大変な道だったが、道行く行者を接待した。それを記念してこの碑を造った」的な事が書いてあったような気がしたのだが、正直なところわざわざ記念碑を建てるような事にも思えなくて、またしても思考停止してしまった(^-^; おいらとんでもない読み違いをしているのではないか、と思いながらも心が折れてそれ以上の解読作業は放棄(^-^;
※ ※ ※
という相変わらずの体たらくぶりだったのだが、帰宅後に興味深い話を見つけた。
BOSO LEGEND様(http://www.boso-legend.com)の「八人塚ものがたり」(←クリック)。
そこに、この地区に伝わる物語とそれに伴う最近まで残っていた習慣が記されている。詳しくはそちらを見ていただければよいのだが、これまた、ごくおおざっぱに要約すると…
「江戸時代、この付近で入会地を巡る争いがあり、その理不尽な裁定に不満を持った土地の若者が裁定者の役人を谷に放り投げた。しかし、それが発覚し若者は処刑に。若者達はそのことを呪いながら処刑され、その後、村では災いが頻発。その災いを鎮めるために、村の住民は彼らを供養し、さらにはこの地を通る旅人を茶で接待する習慣ができた」と。
この(夏場に)通行人を接待するという習慣は昭和40年頃まで残り、その接待の場(茶屋)がこの付近だったようだ。
この話を読んで、先ほどの仏像の並ぶ古道(?)、念願成就祈願塔、接待記念碑の存在がスッと納得できたような気がした。それと変わった隧道名の由来も判明。これまで、養老渓谷方面に向かう一通過点として、ほとんど意識せずに通っていた道にそんな歴史があったとは。
さて、この旧道っぽい道だが、
どうさらその先にあるココへのアクセス路のようだ。ところで、これは何?(^-^;
そして道は少し先の広場で行き止まり。その先には植林稚が広がっているが、ヤマビルが怖いので立ち入る気にはなれない。旧隧道の探索は冬になってからだなぁ…
現道方面。茶屋場隧道があったと思われる箇所にコンクリで固められた大きな法面が見える。
※ ※ ※
さて、現道に戻って前進再開。
茶屋場隧道があったと思われる場所。東側より。
法面を見上げる。
旧道があったと思われる南西方面。ここが以前は山だったとは… 山は東京湾かどこかの埋め立て地にでもなってしまったのだろうか。埋め立てのために房総の山がいくつも消えたようだが、その反面、残土が山に運び込まれている今日この頃。この趣味を始めてから、そういうイヤな光景が目に付くようになってきた…
西側より。
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